プロフィール

自分
ひろ

このブログを書いているひろと言います。

ここでは私の自己紹介をします。

まずは私の現在取り組んでいることをあげると

  • サラリーマン(農業用プラントメーカー)
  • 筋トレ
  • 副業
  • このブログを書くこと
  • 更なるキャリアアップの転職活動

これくらいです。

え、筋トレだ?
副業だ?
なんだただの意識高い系みたいじゃないか
と思うかもしれません。

でもこれはつい最近の話です。

今でこそ自信がついて転職に成功して
副業にも手をつけて
健康の為に筋トレもしていますが
これは全て30代になってからの話です。

過去に成功体験と言えるものはありません。

30歳未満まではろくでもない生活をしていました。
元々どんな人間だったかと言うと

  • 消極的
  • 自信が無い
  • 小学校から中学校までいじめられる
  • 自分の意見を言えない
  • 人の目を見て話せない
  • 親にすら遠慮する
  • 好きなものには全力を注ぐ
  • 将来の夢は無い
  • 大学にはなんとなくで進学
  • 自己管理とは無縁の生活
  • 仕事のストレスは全て酒で忘れる
  • 特にやりたいこともない
  • 美味いもの食ってビール飲むのが幸せ
  • 好きなことして早死したい
  • コミュ力はゼロ
  • ゲーセンで時間潰したり無駄に時間を使う
  • 休日ひたすらテレビゲーム
  • 休日は深夜に寝て昼起きる
  • 失敗が怖い
  • 優柔不断

おまけに会社ではパワハラ上司の標的にされ毎日サンドバッグ状態。
(もちろん物理的に殴られているわけでなく言葉の責めです)

ネガティブが極まっています。
そしてとても不健康です。

当時はそんなネガティブで不健康な状態が普通だと思っていたのですから
人は変わるものだなーと思っています。

若い時は特に努力が大嫌いで
評価社会の競争に疲れて
ただ何となく生きていました。

普通に生活できて
普通に就職して
普通に結婚できたらいいなー

という感じです。

今だから思うことは
「普通」がどれだけ大変なことなのか
当時の自分に説教してやりたいところです。

そんな私でも結婚できまして
妻の妊娠・出産でふと気づきました。

「俺、このままで良いのかな」
誰でも定期的にこの疑問が自分の中に湧いてくるものだと思います。

今回はタイミングが嚙み合ってしまいました。

人は変われるものだとは思っていますが
簡単には変われません。
何か強い衝撃を心に受けないとなかなか変われないものです。

私の場合は”妻の妊娠”
というビッグイベントがきっかけでした。
そして妻からのトドメの一言

「これからは一人の体じゃないからね」

定番のセリフかもしれませんが
私の心に深々と突き刺さってしまいました。


幼少期
私は昔からいわゆる
”良い子”でした。

もっというと
大人にとって都合の”良い子”

親の言う通りにしていれば間違い無いと
本気で思っていたし
弟がやんちゃだったこともあり
手がかからない子になろうとしていました。

物心がついた頃にはもう
テレビゲームにはまっていたようで

園児の頃もゲームさえ与えていれば
1人で何の問題も起こさずに
留守番できるタイプでした。

シナリオのあるテレビゲーム
親の言う通りにしようとする性格。

私が自分で色々と考えることが苦手だったり
なかなか決断できず優柔不断なのも
ここからスタートしたように思います。

自分で考える必要なんて無くて
言う通りにしていたら褒められたからです。

人にやさしく良い子になる

その通りにしていたら小学生に入って
いじめに合いました。
このいじめは中学生まで続きます。

ドラマで良く観る
絵に描いたような壮絶ないじめではなかったです
すごく地味で陰湿な感じで
私にはつらい日々でした。

それでも親にはいえず
ただ学校に行きたくないと言っても

学校には絶対に行かなきゃいけないものだ
甘えるな
と直接言われたわけじゃないけど
そういうメッセージをはらんだ言葉を親から受け

気付けば教室に入るのが怖くなり
保健室登校になっていました。

たまに教室に行けても
謎の頭痛によりすぐに保健室へ。

中学校ではマシになりましたが
小学校からのメンバには
既にキャラが確立している私をバカにする視線がありました。

中学校は何かしらの部活に絶対に入らなければいけない
という決まりがありました。
とりあえず人数の多いテニス部に入ったものの
当然行きません。

何をしてたかと言うと
同じく部活しない友人とゲーム三昧でした。
当時はニンテンドー64と
後に発売するゲームキューブのスマブラが激熱でした。

スマブラだけは確実に上位だったと思います。
スマブラとウイニングイレブンに関しては
「俺が一番」という人がたくさんいるゲームなので
私も漏れなく井の中の蛙だったとは思います。

ゲームばっかりしているものだから
当然成績は圧倒的に悪く
14点取れたら「あれ?、点数高い!」
という感覚になるほどでした。

数学では0点も取ったことがあります。
何の自慢にもなりませんけどね。

とにかく勉強が嫌い
でも真面目に学校には行き先生の話は素直に聞く

真面目で良い子な性格なのに頭が悪い
という状態になっていました。

この頃は家にインターネットに繋がったパソコンが置かれました。
まだダイヤルアップ接続の時代です。

ネットに接続する時
パソコンのスピーカーから
「ピーガーーヒョロロロロロ」
という音が聞こえてきます。

オンラインゲームも同時にドはまりしました。
ラグナロクオンラインのβテスト版がリリースされていて
それを友人と必死こいてやってました。

もうすっかりオタクでした。

高校受験が近づいてくる頃
私は無知すぎて受験というものがある事を知りませんでした。

小学校から中学校へあがるかのように
中学校から高校に行けるものだと思っていたからです。

今だからこそ分かりますが
当時は教室で皆がしゃべっていた
「滑り止め受かった」「落ちた」
という会話は何の事なのか理解していませんでした。

見かねた当時の担任が
「〇〇高校、推薦でどうや?」
と声をかけてくれました。

普通に受験したら
どこも受からないことは明白だったからです。

正直全く意味が分かっていないまま
「はい」と答えて
流されるままに進学しました。

高校でも落ちこぼれの日々かと思いきや
何と少し自信がついてきました。
なんせ周りの人達が
自分と同じレベルの学力だったからです。

この自信は完全に勘違いでした。
自分より能力の低い人を見て
安心したいだけだったのだと思います。

皆が高校入学と同時に携帯電話を買ってもらっていた頃
私は「携帯電話は要らないから、パソコンが欲しい」
といって自分専用のパソコンを手に入れました。

オタク度に拍車がかかります。
エッチなゲームもやってました。
勉強しないオタクの完成です。

卒業後は大学に進学することになりました。
これは自分で決めたわけではありません。

学習の一環で
自分の考えている進路先について調べる
という時間がありました。

もちろん卒業後にどうしたいかなんて
何も決めてなかったので
就職・専門学校・大学
3通り調べることにしました。

その時たまたま私が
地元の工業大学のパンフレットを持っている所を
進路指導課の先生に見つかり
なぜか私が大学進学希望していることになりました。

気の弱い私は
「違います」
とは言えませんでした。

全ての高校が当てはまるわけではありませんが
レベルの低い学校は進学率を上げたい
と思っているようです。

大学進学希望だと勘違いされた途端
ものすごい手厚くされた気がします。

お願いしてないのに
大学へ推薦してもらえることになり
推薦入試時の志望動機の文章も
ほとんど先生が考えてくれました。

卒業式後から年度末の
まだ高校生として籍が残っているギリギリまで
工業大学で必要な基礎科目の授業をしてくれました。

正直この基礎科目の授業は
さっぱり意味が分からず
大学に入ってめちゃめちゃ苦労しました。

受験経験無しで
特に自分で何かを頑張った経験が無く
自信も無いから流されるままに
大学まできてしまいました。

大学に行きたいなんて微塵も思ってなかったけど
いつの間にか流されるままに大学に推薦してもらい
合格もしてしまい、何の目的も持たぬまま
小学校から中学校へ進学するような感覚のまま大学入学です。

大学では価値観がほぼ一致している人とすぐに会えます。
意気投合した人達と毎日のように格ゲー三昧でした。
この頃はギルティギア アクセントコアという格ゲーにハマってました。

20歳からはしっかり晩酌グセがつきました。
親が晩酌していたので
大人になったら飲むものだろう
というよく分からない理由です。

この頃の飲酒量はまだかわいいものだったと思います。
友人とお酒を飲みながら
夜通し格ゲーするのは最高に楽しかったです。

大学2年の半ばまで
危機感も無く遊びまくっていたら
当たり前ですが
卒業できるか怪しい状態になりました。

そんな時親から釘を刺されます。
「上は目指さなくて良い」
「とにかく卒業だけはしてくれ」

というのも私の通っていた大学は
未成年の間は成績が親の住所に届くようになっているのです。

もし未成年の間に親の住所に届かないようにしたい場合は
親当てに「お子さんから送らないでほしいという申請があったため成績表は送りませんでした。」
という内容の文章が親に送られます。

実家だろうが一人暮らしだろうが
親には確実に子どもの成績を気にさせるようなシステムになっていました。

私はどんなに成績が悪かろうが
そのまま親に成績が送られるようにしていたため
遂に親から声がかかったということです。

いよいよ危機感をおぼえます。
奨学金まで借りて進学した学校で
ただ借金だけして終わるなんて
頭の悪い私でもさすがにヤバいと思いました。

幸い大学には
自分で聞きに行きさえすれば
丁寧に教えてくれる場所がたくさんありました。

「聞きに行こう」と
自分で行動したのは
人生で初めてのことでした。

質問しに行くという行為が
なんだか恥ずかしいことのように感じて
かなり勇気を振り絞ったのを覚えています。

呆れられたり
怒られたりするかと思いましたが
すごく手厚くしてもらいました。

何が分かってないのか分からない状態からのスタートで
それでも丁寧に教えてくれる
とても素敵な先生たちでした。

そこで私は
大学で用意されている単位を取るための救済措置を
片っ端から利用しました。
ワラにもすがる思いでした。

使えるものは何でも使うという考えです。
そうでなければ卒業できない状況まで追い込まれていたからです。

今までは何も考えてなくても
なぜか周りの人が助けてくれて
なぜか卒業して進学していましたが
大学はそんなに甘くありませんでした。

とにかく必死こいて人生で初めて勉強しました。
勉強といっても学問を追求する勉強ではなく
点数を取るための勉強です。

なので当時勉強した内容は
今は全く覚えてないです。
ただ点数を取るためだけの勉強方法だったからです。

そしてなんとか卒業できました。

就職活動は意外とすんなり終わりました。
結論からいえばハズレを引いたのですが
当時は安心していました。

というのも
別にやりたいことなんて無かったので
とりあえず内定が取れればどこでも良いや
と思っていたからです。

親からも「お前、何かやりたいこと無いんか」
と何度も聞かれましたが
何も無いと答えるしかありませんでした。

そもそも働きたくないのだから
やりたい仕事なんてあるわけがありません。

明確な目的は無く
就職活動で得たかったのは
とりあえず次が決まっている
という安心感だけでした。

入社したのは有名な教材販売会社です。
業務内容は飛び込み営業でした。
勤務地は長野県松本市。

当然ながら続かず
約4ヶ月で辞めました。

中学生のいる家にピンポンして
玄関先に出てきてもらい
営業するという業務です。

人の目を見て話せない
自信なさげで挙動不審な
知らない男が突然訪問してきて
玄関先に出てくるわけがありません。

怪しすぎます。
でもそんな怪しい突然の訪問者が私でした。

会社では全く成果が出ない私に
怒号が飛んできます。
超絶体育会系の会社でした。

部活をやっていなかった私には
体育会系のノリは本当に意味不明です。
ただただストレスでした。

この頃は東日本大震災の後で
家に帰ってテレビをつけても
「楽しいなかまーが、ぽぽぽぽーん」
と永遠と流れていました。

今でもあの曲を思い出すと同時に
当時の辛かった日々がフラッシュバックします。

この頃からお酒の量が増えて
バーにも通い始めます。
強いお酒を格好つけて飲むようになり
ウイスキーもここでおぼえました。

最初は舐めるだけでむせたのに
気付いたらロックで美味しく飲めるようになっていました。

ストレスを酒で消す
という悪い習慣のスタートです。

しかし酒でも取れないストレスが体にも影響してきました。
お酒の飲み過ぎも影響したかもしれません。
体調を崩したことで気持ちが完全に落ち込みました。

この会社は生き残る人が少ない前提で
大量に人を雇って
目の粗いふるいにかけるような所なんだと
気付いた時にはふるいの目から落ちていました。

新卒で入った会社を4か月で辞めて地元に戻り
1ヶ月間、ガチのニート生活でした。
母は見守っていてくれましたが
父は焦っていました。

このまま私が引きこもりになったらどうしよう
という心配をしていたようです。
そりゃそうですよね。

でも私には心を回復させる時間が必要でした。
父がいつも何か言いたげなのは
痛いほど感じていましたが
こればっかりは仕方なかったと思います。

1ヶ月経って動く決心をした私は
大学時代にバイトしていた飲食店に頼み
働くことになりました。
1度目の転職です。

ただし最初はバイト扱いです。
学生時代の時より
お客さんが怖くなかったことに気付きました。

ついこの間まで訪問営業で
知らない土地の知らない家のインターホンを押しまくって
知らない人とお話しまくったからです。

そんなバイト生活の時に出会ったのが今の妻です。
地元のオフ会で知り合いました。

そもそもオフ会に出ようと思ったのは
地元に帰ってきた後
今でもつながりのある友人と呼べる人が
全くいないことに気付いたからです。

社会人になってからの知り合いが欲しい。
そう思って動き出していました。

当時流行っていたmixiで募集していた
カラオケのオフ会でした。
歌は上手くないですが
とにかく集まりがあるのなら何でも良かったのです。

新しい友人ができれば良いなと思い
全く出会いを求めずに参加したオフ会で出会ったのが妻です。

知り合って2週間で付き合うことになりました。
でもその頃の私は地元へ戻ってきたばかりです。

貯金無し、車も無し、自分に自信も無い
正社員でもないフリーター。

こんな悲惨な状態にもかかわらず
なぜか付き合うことができました。
もうここまできたら
ひたすら妻に感謝です。

よくぞこんなヒモみたいな状態の男と
付き合おうなんて思ってくれたなと
おかげでまたしても偽りの自信がつきました。

偽りの自信を持ったまま2度目の転職活動の末
決まったのが工場での仕事でした。
選んだ理由は近いからです。

地獄の始まりでした。

9年間も怒鳴られ続けることになるとは
この時思ってもいませんでした。

入社したのは鋳物工場でした。
溶かした金属を型に流し込み
形をつくる。
超危険な作業です。

でも業務内容として気持ちはとても楽だったのです。
あまり人と話さなくて良い
ただの流れ作業で
頭を使わなくて良かったからです。

怒鳴られて続けながら9年間仕事を続けられたのは
頭を使わなくて良いという気楽さからだったと思います。

上司の話はいつも右から左へと流しとけば良かったのです。
それでもツラい時はツラかったですが・・・。

最初にあった先輩は
耳にピアスの穴だらけで
めちゃめちゃ怖かったです。
偽りの自信は消し飛びました。

初日から入る会社を間違えたと思いました。


会社では怒鳴られ続けます。
例えるならサンドバッグです。

このパワハラ上司は1日の中で
徹底的にサンドバッグにする人を決めています。
とにかく気に食わないことがあると
怒鳴り散らします。

「昭和か!」
と思うほど理不尽のかたまりです。

上司から気に食わないことを言われたら
そのストレスを全てを部下である
私や他の弱そうな人にぶつけていました。

標的にしたがる感じが露骨すぎて
「あ、今日くるな」
と分かるくらいでした。

私も含めて
なぜ皆が訴えなかったのか

多分ですが徹底的に相手を恐怖させているのだと思いました。
何も言い返せない正論しか言わず
委縮させるのです。

こんな奴の下で働きたい
ついていきたい
なんて思う人は一人もいません。

パワハラ上司は9年の間で
クラッシャー上司へと進化していました。

クラッシャー上司とは
部下の心を次々と破壊していく上司のことです。

私がメインの標的でしたが
その間にも数人が心を病んで辞めていき
次々と新人が入ってくるものの
また次々と心を壊され辞めていきました。

この上司がいる限り人が育たない。
そんなガン細胞のような存在に見えました。
いや、確実にあのクラッシャー上司は
会社のガンだったと思います。

私はもしかすると強かったのかもしれません。
沢山の後輩たちの屍を乗り越え
なぜか9年も残っていたのですから。

それでも子どもが生まれたプレッシャーにより
私の心は限界に近づいていました。
飲酒量も9年間でかなり増えました。

ストレスと飲酒により
頭痛と過敏性腸症候群が当たり前の生活でした。
このストレスの悪循環が更に飲酒を増やします。

「これからは一人の体じゃないからね」

そんなことは分かってるけど
なかなか止められない

「酒さえあればなんとかやっていける」
そんな甘い考えはどうやら許されなかったようです。

なんせ我が家の家計で一番無駄だと思う失費は
どう考えても酒代だったからです。


仕事とストレスについて
もやもやした気持ちのまま
長男が無事生まれました。

長男の誕生は素直に喜びました。
めちゃめちゃ嬉しかったです。

これから子育てに沢山お金がかかります。
お酒にお金を使い続けるのは現実的ではありません。
でも職場で強いストレスを受け続けるのです。

当時勤めていた工場はブラックな会社でしたが
何故か育児休暇は簡単に取得できました。
(元々戦力として見られてなかったのかも)

育児休暇中に家事育児を優先する中で
何か出来ることはないか
と色々模索していたところ

リベラルアーツ大学というお金の知識を提供している
YouTubeチャンネルを発見しました。

本当にわずかな隙間時間に噛り付くように視聴しました。
そこで

転職が当たり前の時代
転職活動は気軽にやって良い
転職はリスクがあるけど転職活動はノーリスク

という発信を見つけて衝撃が走りました。
背中を押してもらえた気持ちになりました。

その頃お酒を止めるきっかけではじめたダイエットに結果が見え始め
少しだけ自分に自信がついている状態で
転職だっていけるかも
という気持ちになれたのがラッキーでした。

でもタイミングとしては最悪です。
結婚してから今まで
散々転職のチャンスはあったのにもかかわらず
なぜ今なのかと。

子どもが生まれて夫にはなるべく家にいてほしい
このタイミングでなぜ。
妻の不満は爆発です。

「絶対今より良くなるから」
と妻を説得しました。

正直なところ全然納得していないように見えましたが
これ以上今の職場で我慢し続けるのはもう無理な状態でした。

育児休暇が終わった後
またあの地獄に戻るのかと思うと
心が重くて重くてしょうがなかったんです。

「自分さえ我慢すれば・・・」

そう考えたこともありました。
でもこの考え方はとても危険だと気付きました。
会社で疲弊しきって家族との時間が充実するのか?

子どもができる前に妻からこんなことも言われました。

「あなたとの休日はつまらない」

どういう意味か聞くと

休日の私は口を開けば
「あこが痛い」
「ここが痛い」
「溜息ばかりつく」
そんな状態だったようです。

衝撃でした。
自分では全く気付いていなかったのです。
全部無意識で発言してたみたいです。

そんな奴と一緒にいて楽しいわけがありません。
子どもだって馬鹿じゃないのだから
何か察するはずです。

心身ともに健康でなければ
生活が充実しているとはとても言えません。

会社で上司から怒鳴られ続け
ストレスをためまくる日々
家族と過ごす時間で溜息ばかり
そんな姿が健康なワケがありません。

お酒が買えなくなった以上は
そのストレスの原因である
職場を変えるしかないと思いました。

そうして転職を決意。
3度目の転職活動のスタートです。
転職を決意してからの私は意外と頑固でした。

「絶対に好条件の会社に転職する」

このタイミングで転職する許しを得た妻との約束です。
具体的には

  • 今より給料が高くなる
  • 今より家から会社が近い
  • 転勤が無い
  • 残業が今より少ない

そんなウマい話あるかよ
と思うかもしれませんが
1年間粘ればありました。

現在私が勤めている会社がまさに
全てをクリアした会社でした。


転職活動は結果として
約1年かかりました。

転職には転職エージェントを使うべき
という発信を見て
早速おすすめされていたサイトに
意気揚々と登録

やる気満々で転職活動をスタートしたものの
出鼻をくじかれました。
届いたメールを見て言葉を失います。

「紹介できる求人がありません」

・・・

ものすごく裏切られた気持ちになりました。

後になって分かったことですが
その転職エージェントは
IT系のハイクラス求人でした。
そもそも何も知らずに登録していた私が悪かったのです。

私はその後ヤケクソになって
有名な大手転職エージェントに登録しまくりました。

しかし処理しきれず
実際に使った大手は

  • リクルートエージェント
  • doda
  • マイナビエージェント

この3社です。

このヤケクソ行為が
結果として良い方向に流れました。

リクルートエージェントで
転職エージェントの基本的な流れを掴み

dodaでリクルートエージェントには無い求人を確認
マイナビエージェントで新規エージェントと可能性を広げる。
結果的にそんな流れになっていました。

そりゃあ最初に選んだリクルートエージェントで
サクッと決まってしまえば一番早いし
楽だったかもしれません。
1年もかける必要は無かったでしょう。

書類で落とされまくると
「これ本当に転職できるのか?」と
めちゃ不安になります。

面接の機会が少ないせいで
やっとこぎ着けた面接では
ド緊張、頭も真っ白。

面接当日、何を喋っていたのか
本当に記憶に残ってません。

格好よく自分の市場価値をアピールして
今できる事とこれからの誠意を伝えるのだと
イメージだけしていましたが

実際の面接シーンでは超格好悪い
声が震えまくって、しどろもどろで
覇気があるとは到底思えない状態でした。

でも今の職場に出会えたのも1年かかったからで
その他多くの企業から落とされたからこそ
今の良い職場を知ることができたのだと思っています。


転職活動を始めてから
パワハラ上司が急に怖くなくなりました。
あんなに怯えていた自分は何だったのか。

「どうせ辞めるんだし」
という感覚はとても行動力と勇気をくれます。

転職決意から1年間は長く感じましたが
不思議とストレスに感じなかったのは
どうせ辞めるんだし何を言われてもプレッシャーに感じる必要は無い
という安心感でした。

会社での立ち回りが良くなったように思います。

今までは
「怒鳴られないようにしなきゃ」
これしか頭になかったからです。

別に全てを他責にするわけではないですが
「怒鳴られないようにしなきゃ」
で頭いっぱいにさせてしまう上司は最低です。

どうせ辞めるんだし精神は
「怒鳴られないようにしなきゃ」
から解放させてくれました。

おかげで頭の中には余裕ができて
確実に実感できるほど仕事の効率が上がりました。

こういう話ってウソ臭いと思っていたのですが
本当なんだなーと

嫌な会社や上司から逃げるのだから
仕事のやる気なんてゼロになって
効率もクソもあるかよ
なんて思っていたからです。

でも実際はやる気が無くなったからこそ
程よくチカラが抜けて
仕事が他人事になり
気付かなかったことに気付くようになったんです。

会社としては、社員1人の意識なんかどうでも良くて
効率よく仕事が進めばそれで良いはずなので
結果的に良かったと思っています。

上司から受けるプレッシャーで
これほどまでに結果が違うものかと
我ながら感心しました。


1年間の転職活動の末に内定を獲得。
不思議と内定が取れる時の面接は
落ち着いて受けられるものです。

それなりに数をこなして
少しずつ慣れたのもあったかもしれません。

そういう意味では
最初から働く気なんて全くない会社に応募して
本番の面接で面接練習するのも有りだなと思いました。

相手は本気で人の採用にコストを割いているのに
それを練習に使おうなんて少し申し訳ないかも?

なんて、実はそんなことは1ミリも思っておらず
「私の人生のために犠牲になってもらうか」
くらいの気持ちで利用させてもらいました。

今働いている会社の面接は
本当に自然体で話をすることができたと思います。

面接してくれた人も、私を試してやろうという姿勢は一切見えず
とてもフェアに面接してくれたように感じました
余計なプレッシャーを与えてこない良い人だったからこそ
私も緊張せずに自然に話すことができたのかもしれません。

私が希望している条件を全てをクリアしている

トータルの残業時間は減ったのに給料はわずかに増えているし
家から近いおかげで車を手放し
固定費も削減できました。

おまけに声を荒げるような上司が一人もいません。
こればっかりは入ってみないと分からないことでしたが
当たりを引くことができて本当に良かったと思います。

そんな会社を紹介してくれた
転職エージェントには本当に感謝しています。


現在は転職してから約1年半が経ちました。
何の問題もなく、気持ち良く仕事ができています。
労働環境がいかに大切か痛感する日々です。

こんなに自由で達成感や
やりがいを感じられる働き方ができるのかと

転職前の1年目から地獄だったあの職場は
いったいなんだったのか
何故あんな所で我慢していたのか。

給料が低い上に環境も最悪
そんな会社にしがみつく必要なんて
どう考えても無いです。

家族の前で溜息をつくことも無くなりました。
体の痛みはストレスや働きすぎではなく
筋トレによる筋肉痛だけです。

今回の転職で給料が上がった私はあじをしめて
またしても転職活動をしています。
転職エージェントを利用して
現在の私ではどんな給料の会社を紹介してくれるのか

私の市場価値は
この1年半でどのくらいあがったのか
それを知りたかったからです。

もちろん今の会社には秘密です。
自分で言わない限り
転職活動だけなら誰にもバレる心配はありません。

今の職場環境が気に入っているので
すぐに転職するつもりはありませんが
もし凄い良い条件があれば考えます。

もっと気軽に転職エージェントを使い倒して
いずれはどんどん良い給料の会社に転職していこうと思っています。